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半線の今と昔
かつて台湾の原住民は彰化県をBabuzaと呼んでおり、漢人はその音を閩南語に訳して漢字で「半線」と表記するようになりました。鄭氏政権時代に駐兵がこの地を開墾し、1684年(康熙23年)には台湾が清朝の領土となって中国福建の沿岸地域の人々が続々と彰化平原に移り住み、荒れ地を切り開きました。その後10年かけて1719年(康熙58年)に施厝圳が完成すると、さらに大量の開拓移民が彰化平原に流れ込み、それらの移民の多くは鹿港から上陸したため、鹿港が中国大陸からの移民の重要な上陸港となりました。当時彰化が台湾において重要な位置を占めていたことは、「一府、二鹿、三艋舺」という言葉にもよく表れています。中でも鹿港鎮は台湾でも特に名高い文化の都であったため、今から約400年前の最盛期、1784年(乾隆49年)には福建省泉州市蚶江鎮との往来のため鹿港に港が開かれ、台中通商の第二の公的窓口となりました。
1895年には日本と馬関条約(日清講和条約)が結ばれて行政区画の再整備が行われ、台湾を大きく台北・台湾・台南の三県と澎湖庁に分けて、彰化は当時台湾県の管轄下に置かれました。そして第二次世界大戦後の1945年には国民政府により8県9省轄市と2県轄市に分けられ、本県は台中県の管轄となり、さらに1950年の行政区域の整備によって、南は大肚渓から北は濁水渓まで、東は八卦山から西は台湾海峡までが彰化県となりました。