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清雍正時期創建されたものです。清雍正10年(1732年)、台湾先住民の平埔族人西杜林らは清政府の統治を反抗し、県政府を攻めかけました。台湾総司令官呂瑞麟が兵士を率いて治めようと対抗していました。ある日淡水の張宏章らが村を巡行していたところ、平埔族人に攻撃されました。その近くにいた広東からの移民たちが応援に来て退治をしましたが、平埔族の反抗に清政府が四ヶ月かけて治めました。その戦役で、黄仕遠、黄展期、陳世英、陳世亮、湯邦連、湯仕麟、李伯寿、李任淑、 賴徳旺、劉志瑞、謝仕徳、江運徳、廖時尚、盧俊徳、張啓寧、周潮徳、林東伯などの広東移民が戦死し、村民は彼等の遺体を背負って、県城の西門外に埋葬しました。清政府は懐忠祠の現住所の土地を購入して祠を建ち、彼らの御霊を慰めるため春祭と秋祭を行っていました。1833年再建され、そして1954年に修復されました。
戦役では黄仕遠、黄展期、陳世英、陳世亮、湯邦連、湯仕麟、李伯寿、李任淑、頼徳旺、劉志瑞、呉伴雲、謝仕徳、江運徳、廖時尚、盧俊徳、張啓寧、周潮徳、林東伯らが命を落としました。村人は彼らの死を哀れみ、遺体を背負って県城の西門外に埋葬し、これを十八義民の墓としました。また、清政府は現所在地の土地を購入して祠を建て、彼らの御霊を慰めるため、春祭と秋祭りを行いました。その後道光13年(西暦1833年)に再建され、1953年に修復されました。
懐忠祠