観光スポット特色
清朝光緒年間の抗日義軍を記念するものです。公園には祭祀殿がありかつての烈士たちを称えることができるだけではなく、両側にはそれぞれ一門ずつ昔の大砲と東屋、花壇があります。古い大砲は清朝の光緒10年の1884年に巡撫である劉銘傳とともに、日本軍が侵攻してきた際、義軍として敵に対抗した武器です。本来は卦山館の現蒋公紀念館前にありましたが、1972年に卦山園レストランに移され、1983年に現在地に移されました。
乙未保台和平紀念公園は元の名を「八卦山抗日烈士紀念碑公園」と言い、再計画と整備を経て、2008年2月に正式に「乙未保台和平紀念公園」と改名されました。清々しく美しい整備後の園内には、現代的なデザインのスロープと広々とした木造デッキがあり、大肚渓の沿岸を遠くに眺めながら、抗日戦争当時の義勇軍の士気の高さと、死を恐れない立派な心意気に思いを馳せることができます。戦争の面影が消えた今では、生い茂る木々や鳥と虫の鳴き声がそれに取って代わるようになり、多くの地元の方々にとって、レジャーや運動に最適な場所となっています。
清朝の光緒20年、1894年の日清戦争で清朝が敗れ、翌年に日本と下関条約を結び、台湾を割譲。台湾の人々はこれに激怒し、義軍を組織して日本に抵抗しました。
日本軍は台湾の東北角の塩寮から上陸し、南へ進むと、義軍の迎撃に遭いました。中でも、八卦山争奪戦は、台湾の抗日の歴史上で最大の戦争でした。8月28日の朝、日本軍が急いで大肚渓を渡り、八卦山東側の高台を攻め、義軍の守備将軍の呉彭年が人々を率いて決死の戦いを繰り広げました。血戦は3日間続き、日本軍の北白川宮能久親王の叔父が重傷を負い、山根少将が砲撃により射殺されました。
最終的に戦力の差により、日本軍が八卦山と彰化城を攻略し、大義の為に命をかけた義軍の人々は約4、5千人にのぼりました。彼らは自らの肉体をもって、3倍の敵軍の精鋭部隊に対抗しており、その勇敢な精神は、後世でも尊ぶに値するものと言えるでしょう。