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乾隆51年の冬、台中への移民のリーダー林爽文が人々を集めて反旗を翻し、大里(現在の台中市大里区)で事件をスタートこしました。1か月以内に戦火は台湾全土に広がり、清朝が兵を派遣しましたが鎮圧できませんでした。8月初め、乾隆帝は最も信頼できる満州鑲黄旗の協弁大学士陜甘総督である嘉勇公福康安を大将軍に命じて巴図魯の近衛兵数百名と10万の大軍、戦艦数百隻を大担門に集めて出港しようとしましたが、風も波も味方せず、海を出ては吹き戻されていました。10月末まで延期された後、福康安は右旋白螺を取り出して敬虔に媽祖に祈りました。すると風がやんで崇武澳から出航することができました。1日の間に大軍は安全に鹿仔港に到着し、3か月経たずに林爽文事件を平定しました。福康安はこの奇跡は媽祖の助けによるものだとして奏上し、旧暦12月にこの地に廟を新築する資金を朝廷より下賜されました。乾隆帝は媽祖の以前の号に「顕神賛順」と加え、並びに「佑済昭霊」の皇帝の書、と「后徳則天」の扁額を福康安自らが運び、乾隆53年の旧暦6月に媽祖の徳をたたえるために扁額を奉納しました。
乾隆帝は媽祖の以前の号に「顕神賛順」と加え、並びに「佑済昭霊」の皇帝の書、と「后徳則天」の扁額を福康安自らが運び、乾隆53年の旧暦6月に媽祖の徳をたたえるために扁額を奉納しました。