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鹿港文武廟
文開書院:

文開書院とは、武廟、文祠、文開書院の三つの建物をあわせたものを指し、鹿港の重要旧跡の一つである。道光4年(1824)に、鹿港の海岸防備同知鄧伝安氏が書院を建てるという提案をすると、八郊の多くの商人がそれに賛同して募金を集めた。そして、道光7年(1827)に書院が完成した。「文開書院」という名は、明末の文人である沈光文氏を記念するために、彼の名前の「文開」を取って名付けられた。

1975年12月9日に起きた火災で、正殿、後殿、文祠も焼かれてしまったが、その後放置されたままであった。1985年に第三級重要文化財の指定を受けた後、漢光建築事務所によって修繕工事が行われたため、文開書院は美しい姿に戻った。しかし、1999年の921大地震で書院は再び崩壊してしまい、数年間の改装工事によってようやく2005年に完成した。

武廟、文祠:

文祠とは文昌祠のことで、文開書院に隣接している。嘉慶16年(1811)に鹿港の海岸防備同知薛志亮氏が自らの給料を寄付し武廟と文祠を建てた。有力者である陳士陶氏によって文昌祠が、蘇雲氏によって武廟が建てられた。

文昌祠の中に「文昌帝君」が祀られ、また、武廟には関羽氏が祀られている。また、鹿港の文人によって文昌祠に「拔社」が設立された。「拔社」とは、鹿港で最も古く、無料で勉強ができる「義学」と「詩社」のことである。文昌祠も同じである。

光復後には、武廟と文祠は兵営となった。1975年、文祠で火災が起き、建築が崩壊してしまったが、1985年に政府によって再建されることになり、2005年に完成した。

文昌祠は「二進一院」という造りで、前には「泮池」と呼ばれる池がある。昔の人たちは試験に受かったときには文昌祠へ行き、古い礼節に従って、池の芹の葉を取って帽子の縁に置いた。そのため、試験に受かった人は「入泮」と呼ばれる。

三川殿の中には二つの碑文がある。一つは嘉慶からの「重修文武兩祠碑記」、もう一つは光緒からの「重修文祠碑記」である。これは武廟と文昌祠の貴重な文献である。文祠と武廟の間には「虎井」と呼ばれる井戸がある。その水は甘くておいしい水で、「蓬萊第一泉」と呼ばれている。

武廟は嘉慶24年(1819)、咸豊4年(1854)、光緒7年(1811)に再建された。現在の正殿には、嘉慶16年(1811)の「藻藥海天」と咸豊4年(1854)の「峻極于天」の横額がある。これは武廟の貴重な文物とされている。武廟の三川殿に矢大神の彩絵がない理由は、役所らしさの趣を出すためである。武廟の正殿の前には古い鐘があり、これは昭和5年に鹿港の有力者である、黄禮永氏と許梅舫氏から贈られたもので貴重な文物である。 魅力いっぱい 鹿港文武廟-1
現在の正殿には、嘉慶16年(1811)の「藻藥海天」と咸豊4年(1854)の「峻極于天」の横額がある。
美しい 鹿港文武廟-2
これは武廟の貴重な文物とされている。
絵画的な綺麗 鹿港文武廟-3
武廟の三川殿に矢大神の彩絵がない理由は、役所らしさの趣を出すためである。
著名な 鹿港文武廟-4
武廟の正殿の前には古い鐘があり、これは昭和5年に鹿港の有力者である、黄禮永氏と許梅舫氏から贈られたもので貴重な文物である。
魅力いっぱい 鹿港文武廟-5