LOGO
::: 花だより 遊 び 古 跡 文 化 生 態  農 場 鉄 道 グルメ 祭 典 観光コース  
:::
line
彰化概要
line
交通情報
line
旅行情報
line
旅行常識
line
ページ一覧
line
中国語 中國語
:::
節孝祠 慶安宮 開化寺 懐忠祠
関聖帝(関羽)廟 定光仏廟 南瑤宮 西門福徳祠
永靖余三館 花壇虎山厳 芬園宝蔵寺 員林興賢学院
珍しい唐山式廟 文武廟 鹿港日茂行 鹿港の地蔵王廟
鹿港の城隍廟 鹿港隘門 興安宮 鹿港金門館
鹿港南靖宮 鹿港鳳山寺 鹿港の丁家古屋 鹿港天后宮
彰化城及び八卦山砲台 鹿港古街    

節孝祠
節孝祠
彰化市公園路にある節孝祠は台湾唯一独立した貞節烈婦を祀る祠で、本土文化と建築歴史においては不可欠な価値と意義を持っています。節孝祠は清国の光緒十三年(1887年)に完成され、元々は彰化市の城東門の城隍廟の東側にあり、台湾中部の462人の貞節烈婦を祀ります。甲午戦争(日清戦争)後、彰化が日本人に侵略され、節孝祠も破壊され燃やされました。さらに都市建設計画の道路拡大で取り壊されました。大正十二年(1923年)に現在の場所で建てなおされました。再建された節孝祠はここ数年間にも修復され、その構成は元来とはほぼ同じです。全体の構造は四合院(庭を中心にして東西南北に部屋が並ぶ)となり、殿と廊下それぞれ二箇所あり、山川門、両耳房、そして中庭、軒亭、正殿が整然に並びます。祠の隣には百歳の古木と広い芝生があります。節孝祠内部の2つの特色は――木の彫刻及び彩絵は貴重なもので、台湾はじめての技と造形を見せ、ゆっくり味わう価値があります。(節孝秋祭ー旧暦8月18日) top

慶安宮
慶安宮
主祭神:保生大帝
副祭神:観音様
住所:彰化県彰化市大同里永楽街78号

歴史物語
彰化の慶安宮は銀同祖廟とも呼ばれ、保生大帝を祀る廟です。清国時代、信仰として中国の泉州から移民してきた人たちの心を慰めていました。慶安宮は清の嘉慶22年(1817年)、同安県の文人が台湾に渡ってきて建てたのです。廟の中にある横のに書かれた(銀同邑廟)は同安県の美称でもあります。伝説によれば、保生大帝の姓は呉、名は夲、字は華基、号は雲東。また大道公・呉真人・呉真・英恵公などとも呼ばれます。福建省同安県白礁の出身であり、医術の神として盛んに信仰されたとされます。top

開化寺
開化寺
主祭神:観音様
住所:彰化県彰化市光華路134号

歴史物語
旧名観音亭。清国が派遣した初めての彰化県長官談経正知県(知事)が雍正二年(1724年)に建てたのです。旧彰化は諸羅県(今の嘉義県)の所轄で、彰化県庁の官庁ができあがってからはじめて独立した県になったのです。開化寺は県庁より早く建てられたので、「お城と官庁より早く創立され、彰化の政治・教育・文化の発足地として、第一のお寺である」とされていました。

清乾隆皇帝18年(1753年)が住民の資金で再建されましたが、彰化県民陳周全が清国政府と戦い、指揮司令部とされ、戦争で壊れました。道光20年(1840年)建てなおされました。咸豊10年火事に見舞われた後、住民の戴潮春らがここを基地として清政府と攻めあい、もう一度ダメージを受け、同治時期になってから修復されたのです。日本統治時代、山川門(四本柱で三つの入り口に成る門の構造)は道路拡大で取り壊され、北側に正門を作りなおされました。正門には開化寺と題字されました。

開化寺の主祀神は観音様で、両側には十八羅漢を祀ります。後殿には註生娘娘(安産担当の女神)と珠公珠婆(天然痘を治療する神様)などを祭ります。 top

懐忠祠
懐忠祠
主祭神:十八人の義民
住所:彰化市富貴里民権路169巷2−3号

歴史物語
清雍正時期創建されたものです。清雍正10年(1732年)、台湾先住民の平埔族人西杜林らは清政府の統治を反抗し、県政府を攻めかけました。台湾総司令官呂瑞麟が兵士を率いて治めようと対抗していました。ある日淡水の張宏章らが村を巡行していたところ、平埔族人に攻撃されました。その近くにいた広東からの移民たちが応援に来て退治をしましたが、平埔族の反抗に清政府が四ヶ月かけて治めました。その戦役で、黄仕遠、黄展期、陳世英、陳世亮、湯邦連、湯仕麟、李伯寿、李任淑、 ョ徳旺、劉志瑞、謝仕徳、江運徳、廖時尚、盧俊徳、張啓寧、周潮徳、林東伯などの広東移民が戦死し、村民は彼等の遺体を背負って、県城の西門外に埋葬しました。清政府は懐忠祠の現住所の土地を購入して祠を建ち、彼らの御霊を慰めるため春祭と秋祭を行っていました。1833年再建され、そして1954年に修復されました。 top

関聖帝
関聖帝(関羽)廟
主祭神:関聖帝君(関羽)
住所:彰化市民族路467号

歴史物語
 彰化の関聖帝廟は清雍正13年(1735年)彰化県知事秦士望が創建したものです。元住所はお城の南門辺りにありましたが、乾隆51年林爽文らが清政府の統治を反抗し、彰化城内数多くのお寺、廟及び官庁が戦争で壊れました。清政府が戦争を治めた後、1800年県知事胡応魁、貢生 (生員から抜擢されたもの)鄭士模、呉東升らの提案で、今の住所に移りました。優美な建物の中に、巨大な神像が精巧に彫り刻まれています。それに、歴史長い碑や扁額も多く見られます。その構造は台南、新竹、新荘などの関聖帝廟とよく似ていて、清時代台湾式関聖帝廟の代表的な様式ともいえます。関聖帝廟は普通東方を面しないが、ここが東に向かっているのも特色の一つです。正殿には関羽を祀り、副祭神を関太子、周将軍及び赤兎馬にされています。後殿では文昌帝君を祀ります。清時代嘉慶時期の正門扁額「威鎮 海邦」は今でも殿内に掛けられています。建築物の木造部分は簡単なラインで、力学的な美しさを見せ、風合いの素朴な彫刻も官建ての廟の特色を現しています。建物の造り方から見れば、当時この廟は広東からの建築士に建てられたと判断できるでしょう。ここ数年間の修復で、昔の厳粛典雅は今でも残っています。 top

定光仏廟
定光仏廟
主祭神:定光仏
住所:彰化市光復路140号

歴史物語
元々「定光庵」と呼ばれた当廟は清の乾隆26年に創立され、清の道光28年(1848年)彰化大震災以後、信者の張連喜らの手で再建され、新たに「定光仏廟」と名付けられました。「定光仏廟」には華やかな外見を持たず、古廟風の厳粛な雰囲気もなく、人の目を引かない廟ですが、彰化駅前の大通りにあり、繁華街の一隅に、別世界のような存在です。通りかかった人たちが手のひらを合わせ、参拝する様子がよく見かけられ、盛んに信仰される廟で、彰化市にも歴史の一番長い廟です。 top

南瑤宮
南瑤宮
主祀神:天上聖母
住所:彰化市南瑤路43号

歴史物語
南瑤宮は彰化県城の南門外にあり、その故外媽祖とも呼ばれています。雍正時期に清政府が彰化を県として設立した後、規模が膨大なお城の建設が乾隆時期に入ってから初めて完成されたのです。当時お城の建設に参加していた楊謙という陶器職人が笨港(今の北港)の天后宮から香火(お線香)をお守りとして持ってきて、今の南瑤宮の所在地で祭っていました。近くの住民は夜になると、祀られていた香火が空まで光ったのを見て御神蹟だと思われ、資金を集め廟を建てたのです。乾隆三年に完成された当廟は最初媽祖廟と呼ばれ、同年の十一月本殿の拡大建設につれ、新たに南瑤宮と名付けられました。その後、建設が重ねて広げられ、今日の偉い規模になったのです。二殿だった南瑤宮は日本統治時代に三つ目の観音仏祖殿が建てられ、200年の歴史があります。 top

西門福徳祠
西門福徳祠
主祭神:福徳正神(土地神)
住所:彰化県彰化市富貴里中華路243号

歴史物語
西門福徳祠は福徳正神を祀ります。福徳正神は言い換えれば土地神のことで、土地を守る神様です。その故大西門土地公廟とも呼ばれています。この祠の創建時期は不明で、廟内の扁額から清の乾隆時期ごろだと推測されています。台湾の移民史から見れば、パイオニアの人たちが福徳正神を信仰するのが一般的なことだとわかりました。福徳正神を、農民が土地神として祀り、商売人が財神として祀っています。ですから「畑の周りが福徳正神を、繁華街も裏町も福徳正神を」とよく言われています。昔の彰化には四つの城門があり、東門(楽耕門)、西門(慶豊門),南門(宣平門) ,北門(共辰門)です。四つの城門内近辺に、みんな土地神の祠が建てられていました。 日本統治時代、路面を拡大するため、三つの垣も城門も取り壊され、慶豊門の土地神の祠だけが残り、それは今の西門福徳祠です。城門の福徳祠をいえば、鳳天県にある旧城土地公廟も注目されるものですが、建築材料、彫刻及び規模を見れば、彰化の西門福徳祠が遥かに優れています。 台湾全土には土地公廟が数百箇所もありますが、殆ど小規模で、西門福徳祠のような広い土地公廟は珍しいものです。一殿式の廟の前方に参拝亭があり、素朴で上品な雰囲気が漂っています。屋根の四つ隅が上がっている参拝亭に、燕尾造形があり、とても綺麗です。 top

永靖余三館
主祀神:天上聖母
住所:彰化市南瑤路43号

永靖の陳家の余三館は台湾の十大古宅の一軒で、清の同治11年(1872年)に建てられたのです。陳家の祖先は清の康熙の末期広東の饒平県から台湾に渡り、十五荘*の灌漑地域を開墾し、お金持ちの名門になりました。清の末期、第十五代の子孫陳有光は豪邸の建設を始め、7年半をかけて完成させました。余三館は外護龍を近代で修復したのを除き、珍しく主体の部分は清時代のままを保っています。

専門家が語ってくれる物語
「余三館」と名付けた理由は祖先を記念しながら、「祖先が困難を乗り越え、子孫に財産を残し、子孫たちに福多く、寿命長く、多子多孫になるよう」という意味合いが盛り込まれたといいます。

余三館の特色
建物の方向:東向け、東からくる富貴を迎えようという意味があります。構造:三合院で、中庭には池、入り口の門楼を配置しています。

「一字二湾」式レイアウト
客間の前にある帯軒亭の外護龍は内護龍より長い「一字二湾」式レイアウトは 福建 の南部や広東の東部にはよく見られる伝統的な形式です。

「貢元」
余三館の創建者陳有光は同治12年(1873年)貢元の肩書きを得たので、客間の(まぐさ)に「貢元」の扁額が掛けられたのです。

客間
客間内には太師椅、八仙卓、供卓及び二つの執事牌「恩授貢元」「成均進士」などがよく保存されています。客間前の軒亭が全部彫刻、彩絵から成るもので、精緻でとても美しい。

「創垂堂」
陳家の木苑公という先祖から十四代の祖先を祀る場所です。「創垂堂」は先人が「家業を創立、後代に垂れ残る」という恩を感謝する意味で、付けられた名前です。

左右両側の護龍
光緒15年に掛けられた百年歴史ある扁額「雷沢」「歴山」が依然として両側の護龍に残っています。

格扇門
格扇門の透かし彫刻虎炉が高い芸術的価値を持ち、彩絵の塗装色彩がとても優美で、ゆっくり吟味する価値があります。

豆知識
清の時代に大規模土地賃貸開墾制度が盛行していました。余三館はこの制度がはやっていた中、土地賃貸大手が建てた客家豪邸です。

旧跡を訪れましょう!
住所:彰化県永靖郷港西村中山路一段451巷2号 top

花壇虎山厳
彰化の三大有名な寺の一―花壇虎山厳
出家者の修行地である花壇虎山厳の主祭神は観音菩薩です。清乾隆12年(1747年)白沙坑の信者たちが観音菩薩を祭る仏教のお寺を建設しようと提案したことにつれ、信者頼鳳高は山を提供しました。建てられた虎山厳が清の時代で、彰化の三大有名な寺の一つになりました。

仙境のような優れた地理環境
虎山厳の名前の由来はここの地形が横になっている虎の形とよく似ているからきたのです。伝説によればここの地形は風水から言えばは虎穴といわれ、前面にある渓は龍の形になっており、裏の山は虎の如くというのです。お寺は竹林に囲まれ、鳥の鳴き声にきれいな景色が楽しめます。仙境のような萌える緑の中、竹林の音を楽しむ「虎厳で竹の音を体感」という風景は清の時代から彰化の八景の一つとなっております。

静かでロマンチック
殿が一つだけで構成した三合院式の虎山厳廟は古素朴で、清時代中期を代表する小型な廟の形になっています。左側にある修竹の林の中に、「聴竹亭」がロマンチックな雰囲気が漂います。お寺の前面に立つ二本のカジュマル(榕樹)が茂り、二百才を超えた古木です。虎山厳はただ山の中の静かなお寺ではなく、一般市民にとっても訪れていい旧跡名所です。

お祭り
観音菩薩を祭る虎山厳は年中行事は2月19日、4月7日、6月18日、 9月29日となっており、信者が集まってきて賑わいます。

旧跡を訪れましょう!
住所:彰化県花壇郷岩竹村虎山街1号 top

芬園宝蔵寺
歴史長い宝蔵寺は三つの殿及び両護龍のレイアウトが取られたお寺で、観音菩薩を主祀しています。宝蔵寺の創建時期が不明です。伝説によれば当寺は元々観音菩薩を祭るお寺だったが、ある日嘉義から来たある泉州人が媽祖の御守札を持ってきました。その御守札が神蹟を見せ、信者がますます増えてきたのです。そして、雍正11年(1733年)、お寺の建て直しが完成され、鹿港の天后宮から媽祖の分霊を迎えました。《彰化縣志》の記録によれば、宝蔵寺は乾隆50年(1785年)、村民たちが力を合わせて建てたのだといいます。

専門家が語ってくれる物語
前殿の屋根の飾りが普通のお寺と違い、割と大きく、そして硬山燕尾翹脊式の断簷升箭口形式がスペシャルです。正殿の正面が広くて高い、神龕の上には清の嘉慶皇帝が賜った扁額「宝山第一」が掛かられています。三川殿の竜虎堵が泥塑で作られ、素晴らしい技を見せました。お寺内部の木造部分の彫刻手法及作り方が広東風を見せ、研究する価値があります。

豆知識
台湾中部の仏教名所は昔「二寺三厳」が一番有名だといわれています。二寺は芬園の宝蔵寺及び鹿港の龍山寺のことで、三厳は花壇郷の虎山厳、社頭の清水厳、南投市八卦山にある碧山厳のことを指しています。ということで、宝蔵寺の地位が想像できるでしょう。

旧跡を訪れましょう!
住所:彰化県芬園郷進芬村彰南路三段135巷100号 top

昔の学校――員林興賢学院
 興賢学院の前身は「文昌帝君廟」で、文昌帝君を主祀していました。200年の歴史ある当学院は清の嘉慶12年(1807年)に建てられ、当地の学校でした。1999年の「九二一大震災」の時、ほぼ全壊になりました。

地震で「龍の階段」「敬聖亭」しか残らず
興賢学院は1999年の大震災でほぼ全壊になり、使われた紙を燃やす「敬聖亭」と「龍の階段」だけが残ってきました。「龍の階段」が花崗岩を使い、雲と竜の模様を刻み、造形は素朴だが精緻さがあふれています。

昔の学校を訪れましょう!
住所:彰化県員林鎮中正里三民街1号top

二林の仁和宮――珍しい唐山式廟
彰化二林にある仁和宮はとても古い媽祖廟で、乾隆初期に建てられたといいます。乾隆47年(1782年)に、廟の建物を南向けに、そして家屋と一体化に改修されました。何回の建て直しを重ねて、嘉慶20年(1815年)に入ってから今の規模になったのです。今の面目は1961年修復されたのままです。

専門家が語ってくれる物語
主祭神は媽祖です。三殿兩廊式のレイアウトをとり、正殿と後殿ととも單脊硬山式建築です。歇山式屋根の両側には斗拱を利用して建物の垣より突き出させ、綺麗かつ巧妙な構造となっています。唐山式の廟の特色は立派でありながら形が簡単です。仁和宮は何回も改修されていたけど、今でも 福建の南部の廟の荘厳的な精神を保ち、台湾では数少ない唐山式の廟の特色を見せています。

精緻な彫刻 素朴で上品
三川殿の石彫刻、木彫刻の手法はとても精緻で、特に大門の両側にある窓飾りの部分が仁和宮中で一番巧妙かつ美しい技を見せました。石の獅子、柱珠などか素朴で上品で、古典的な雰囲気を感じさせています。嘉慶20年ごろの対聯や石碑が今でも保存され、歴史の研究には参考価値のあるものでしょう。

仁和宮を訪れましょう!
住所:彰化県二林鎮西平里中正路58号top

一箇所に三つの旧跡が楽しめますー文武廟
 文武廟の規模はとても広大で、武廟、文祠、文開書院が三つの施設が一体化され、鹿港の重要旧跡の一つです。 文武廟は清の嘉慶17年(1812年)に建てられ、最初は忠義を崇拝する場所及び若者の文と武の学習場として建設したのです。文廟と武廟はそれぞれ文昌帝君及び関聖帝君を祀ります。文廟と武廟の垣がつながっているので、「文武廟」と呼ばれたのです。

専門家が語ってくれる物語
清の道光四年、鹿港のお金持ち林振蒿の息子林文濬及び鹿仔港の同知ケ傳安は明の末期の文人沈光文を記念するため、文廟の左側に文開書院を作りました。それで文開書院が鹿港の文化教育の発祥の地となりました。しかし文開書院はあるとき火事で壊され、今の「文武廟」も再建されたものです。

文武廟を訪れましょう!
住所:彰化県鹿港鎮青雲路2号 top

積善の家―鹿港日茂行
三級旧跡である日茂行は昔泉郊のお金持ち林振嵩の邸宅

日茂行の物語
乾隆帝王の時代、中国泉州府晉江県の林振嵩が海を渡り、台湾の鹿港に来ました。食塩商売でお金持ちになった林振嵩が嘉慶21年(1816年)日茂行(日廟とも称す)を建てなおし、その時八郊あたりで資産及び営業項目が一番多い商売人となりました。

旧跡と昔の物語が残られ
当時の日茂行の立派さと林家が善行に熱心していたことにより、日茂行も「積善の家」の美称をもらいました。伝説によれば、今、日茂行の門前にある大きい石ころは昔舞台や旗竿を立てる用の土台だといいます。それらの石ころはみんな福建の高級泉州意味だといわれています。ぼろぼろの邸宅になってしまいましたが、いまの外見からも当時繁栄していた風景が想像できるでしょう。

住所

彰化県鹿港鎮泉州街66、70、55、58、59、60、62、63、65、67号 top

台湾の典型的な陰廟――鹿港の地蔵王廟
鹿港の地蔵王廟は約300年の歴史があり、清の初期乾隆22年、四川の天竺尊巖から迎えてきた分霊だといい、盛んに信仰されています。嘉慶20年(1815年)八郊の人たちは「天后宮」(旧媽祖宮)の修復資金の一部を今の場所で「地蔵王廟」を建てなおしました。今の様子になったのは光緒初期と1971年の修復からなったのです。

専門家が語ってくれる物語
主祭神は「地蔵王菩薩」です。低い天井、奥が細長い空間は陰廟の特徴を見せています。飾りが少ない、簡単で素朴なスタイルも台湾の陰廟の典型的な特色です。内部山門の壁絵は民間の芸術力を表し、流暢でパワーフルなラインと上品な彩りはとても綺麗です。

豆知識
鹿港の北には「天后宮」あり、南には地蔵王廟あることからここの種族の人たちが北=天、南=地という信仰観も覗かせているでしょう。地蔵王菩薩は鹿港で尊重されている神様で、毎年の旧暦の七月には盛大なお祭りが行われています。

住所
鹿港鎮力行街2号 top

鹿港城隍廟
善を励み、悪を罰するー鹿港の城隍廟
主祭神は城隍爺で、鹿港の閤港廟(注:鹿港全員が信仰する廟です。その他に、同じ種族の人たちから建てた廟などもあります。)の一つです。清の道光28年(1848年)、鹿港に大地震がおき、城隍廟も波及されました。道光30年2月総理陳秤官と鹿港海防同知陳盛韶などが一般市民に募金し、三つ殿式に拡大し、気宇広大な廟になりました。

路面拡大で取り壊された前殿が再建
日本統治時代、城隍廟が路面拡大の関係で、前殿が取り壊され、正殿と後殿だけが残りました。1992年の修復で、福建の南部の燕尾頂の形式が再び回復され、元々の荘厳華麗がもう一度取り戻しました。

百年古物などの文化資産の保存地
鹿港の城隍廟内は数多くの古物が保存されています。道光30年ごろの古典的な青斗石獅が精緻に彫刻され、道光21年の磁器香炉には上品な青色模様が描かれ、優雅な造形となっています。そして対聯、「普濟衆生」という古い扁額、稀に見えない銅鏡―「善悪分名」及び算盤などとも時間をかけて楽しむ甲斐のあるものです。

歴史の流れを立ち会ってきた古碑
城隍廟内では一枚の古碑「重修鹿港城隍廟碑記」(鹿港城隍廟修復碑)が道光30年(1850年)に立たれたものです。この古碑には当時鹿港付近の商店、舟屋、住民の名前などが記載されており、鹿港の歴史を研究に当たりはとても参考になるものでしょう。

所在地
鹿港鎮中山路366号top

鹿港隘門
悪事は隘門を通さずーー鹿港隘門
昔の鹿港では、各通路の入り口に隘門が設けられていた、今は中山路の裏道の一箇所しか残っていません。この隘門は道光10年(1833年)に建てられ、高さ10尺(約300cm)広さ8尺(約240cm)、門の上には「門迎後車」という字が書かれています。長い歴史で色々な変化を経て、今の様子は1979年に倒壊した後に修復されたものです。

隘門の物語
昔、違う地方からの移民たちの間はよく戦い合い、台湾早期の移民たちは近所の人と力を合わせ、外来の攻撃を対抗しなければならなかったです。隘門は違う種族、集落間を区画するゲートとして、防御と境界両方の機能を果たしていました。ですから「悪事は隘門を通さず」という言い方が残されました。

所在地
鹿港鎮後車巷top

興安宮
鹿港一番古い媽祖廟――興安宮
鹿港には興安宮、舊祖宮、新祖宮三つの媽祖廟があります。そのうち、鹿港一の古廟である興安宮は300年の歴史を越え、天上聖母(媽祖)を主祀します。

興安宮の歴史
中国から鹿港に移民して来た各地の人たちは興化、泉州、*州の順できたのです。当時興化からの周、蘇の二家族が媽祖の御守を感謝するため、そして家族全員の平安と繁栄を求めるに、清の康熙二十三年(1684年、清国が台湾を版図をいれた二年目です。)興安宮を建て、順治時代中国の*洲から迎えてきた媽祖の分霊を祀りました。

細長い建物
伝統的な街家式建築方式が取られた興安宮は小型の二殿式廟であり、一般住宅の中に建てられたのです。二殿のうち、外側が三山殿で、内側が礼拝の殿と正殿で、細長い形となりました。

至宝である百年文化古物
興安宮の中に、一番貴重な古物は清の初期の木作り軟身聖像と彩絵図の「台湾開拓興安宮全貌」です。その他に正殿では咸豊2年の扁額「奠安山海」、門上の光緒13年の扁額「慈航普渡」が書かれています。そして当時廟の財産を記録した「奉憲勒碑」も珍しいものです。門前太鼓を固定する座は泉州の白石から彫り刻まれたもので、素朴で可愛いです。

再建作業が昔の古典さを再現

嘉慶3年のとき、興安宮は地震で倒壊し、鹿港の士紳周文川が興化籍の人たちを集め修復しました。咸豊、光緒のごろも修復が重ねられました。興化からの移民人数が少ないため興安宮の信者の人数もすくないですが、その分、昔のままで保存できました。柱の石獅子彫刻は歳月につれ風化されていましたが、今は修復され、昔の古典さも再現されました。

所在地
鹿港鎮中山路89号後段 top

航海者の御守りー鹿港金門館
木造の建物金門館の主祀神は蘇府永盛王爺で、古くて典雅です。金門間の歴史 金門館の前身は金門会館で、金門の「コ宮」の蘇府王爺を祀るため、江館とも呼ばれています。清の乾隆52年(1787年)に建設されましたが、場所が狭くて、嘉慶10年(1805年)に拡大されました。その後も修復が重ねられ、1999年の修復で今の面目になりました。

豆知識
蘇永盛は唐時代陳淵の参謀、州(金門)を繁栄な地に開発しました。州の住民は蘇永盛を記念するため、廟を建て、「コ宮」と名付けました。乾隆51年、鹿港を上陸する軍事行動で、兵士たちは蘇府永盛王爺の御守を求め、成功しました。その翌年、神様の御守を感謝するに、廟が建てられたのです。

専門家が教えてくれる物語
金門館は二殿に護龍式建物で、前殿が硬山式で、燕尾の翹脊がとても素朴で荘厳です。中庭では大きな古木が茂っています。門の上にある扁額「金門館」と台湾を開拓した進士鄭用錫らが立てた碑「重建江館」などが重要な文化資産です。三山殿の壁絵は元のものを修復したもので、歴史的な意義を持っています。

金門館を訪れましょう!
鹿港鎮街尾里龍山寺付近、金門巷92号 top

鹿港南靖宮
南靖宮の主祀神は関聖帝君で、*州からの移民たちの廟です。

南靖宮の歴史
福建*州からの移民たちが建設した南靖宮は清の乾隆48年(1783年)に建てられたのです。修復が重ねられ、現在の風貌は1971年が改修したものです。

豆知識
台湾開拓初期、鹿港に中国各地の移民たちが集まってきました。その時、違う場所からの人たちによりそれぞれ集落を固まり、各自の廟を建ち、違う信仰をしていました。そして*州陣営、泉州陣営の間に戦いが起き、泉州陣営が勝利を収めました。ですから、*州人の一部は花壇に移り、鹿港に残った*州人も泉州人に同化されました。鹿港を占有した泉州人が他の集落の廟を接収し、保護と維持の責任を負いました。

専門家が教えてくれた物語
南靖宮は繁華街にあり、外見の幅は鹿港特有の街家の広さと変わらないですが、奥行きは50メートルもあります。このような細長い構造は鹿港でよく見られる街家型建物の特徴です。

南靖宮を訪れましょう!
南靖宮の住所は鹿港鎮後車巷埔頭街74号で、新祖宮と老人会館の間にあります。
top

泉州の廟――鹿港鳳山寺
主祀神は廣沢尊王で、泉州府南安縣鳳山寺から南安の移民たちが迎えてきた分霊です。ですから廟の名まえも鳳山寺のままが使われました。

鳳山寺の歴史物語
清の道光2年(1822年)に鳳山寺が初めて建てられ、道光10年に拡大建設されました。最初の構造は細長い形でしたが、路面拡大の関係で中庭が取り壊れ、三川殿も裏の方にずらされました。今、三川殿の左右両側にも当時の継ぎ目が見られます。

豆知識
廣沢尊王は泉州の人たちが一番崇拝する神様で、保安尊王とも称されます。そのほかに郭聖王、郭王公、郭府聖王等の名称もあります。

専門家が教えてくれる物語
鳳山寺の中庭には進士廖春波と先賢陳懐澄が描かれた碑があり、文献としての価値が高いです。左の部屋は昔北管(注:中国の楽器)の劇場でしたが、今は扁額「玉如意」だけが残っています。万春宮の蘇府王爺もこの部屋で祀られています。三川殿前の両側で見られる竜虎堵及び中庭にある書画堵は交趾陶から作ったのです。古典的な廟に貴重な文物が保存され、行って見る価値があります!

住所
鹿港徳興街にあり、鹿港小学校の近くにあります。 top

進士の邸宅――鹿港の丁家古屋
百数年の歴史を持つ丁家の古屋は進士の邸宅で、鹿港で唯一保存された進士の邸宅です。

丁家古屋の物語
丁家古屋は丁家族の進士丁醴澄がなくなった以後購入したものです。光緒時代、台湾は日本に渡され、丁家も全員故郷の福建へ帰りました。光緒22年(1896年)家族の一員丁宝華が再び鹿港に戻り、「旧協源」を建て直しました。その後、丁協源家族の人たちが次々鹿港に戻りました。光緒28年(1902年)、丁協源家族の蔡秀瓊が台湾に戻り、祖先の財産を整理し、「新協源」と称されました。

専門家が教えてくれる物語
丁家族が長期的に繁栄し続ける原因は「丁協源」の商売をまじめに経営していたからです。当時邸宅を建設するため、中国から花崗岩の板、杉の木、レンガのどの材料が運ばれ、今になってはとても見る価値のものになりました。

住所
彰化県鹿港鎮中山路130、132、134号 top

鹿港天后宮
鹿港天后宮はいつ建てられたのかは調べられないものですが、清の初期に建設されたと公認されています。清の雍正3年(1725年)、海軍の提督施琅が今の場所で建てなおしたのです。ここで祀る媽祖の神像は*洲祖廟から運んできたもので、荘厳で典雅な造形をし、台湾の代表的な媽祖神像です。嘉慶と同治の時代に何回も修復されたが、今の面目は1922年修復したものです。後殿は1959年で立て直されたものです。

専門家が教えてくれる物語
鹿港天后宮の建築構造は三殿式を取り、前殿の三川門の左右にはそれぞれ八角門を設けています。両方の廊下も鐘鼓楼として使われています。正殿は重簷歇山頂のデザインが取られ、大きな柱と梁はとても立派です。前殿の人物模様窓は清斗石の彫刻で、生き生きに刻まれました。top

彰化城及び八卦山砲台
数多くの敵の軍隊に古い山砲が負けた。 八卦山の旧名は定軍山と称され、嘉慶20年彰化城が完成されたとき、八卦山で堡塁も建てられ、定軍山寨と名付けられました。この山寨では砲台を四箇所、城楼を一箇所を設けました。同治1年(1862年)、戴潮春と八卦会の会員たちがともに清政府を反抗し、戦いを起こしました。数日後、八卦山が占領され、定軍山寨の砲台も反抗軍に使われ、彰化城を攻撃するようにされていまいました。二日後、彰化城が反抗軍のものになりました。 この経験を鑑み、清政府が定軍山寨の重要性をしみじみ感じました。光緒14年(1888年)台湾知府程起鶚は定軍山寨を再建し、また山麓で新しく砲台を設けました。しかし乙末年ごろ日本軍との戦いで、歴史の悲劇は再び起きました。当時、能久親王北白川宮が塩寮から上陸した近衛師団を率い、破竹の勢いで台湾中部の大肚渓を迫りました。しかし八卦山で設けられた砲台は旧式なもので、砲台の座は廻らないもので、後ろから攻めてきた日本軍を狙えなかったです。山の上に防衛していた軍隊はしょうがなく逃げるばかりしていました。八卦山が日本軍に占領された後、清の軍隊が彰化城に戻り、高い場所にいる日本軍の猛烈な攻撃を受け、しばらく経つと、彰化城も日本軍に取ってしまいました。

歴史が昔の物語に
彰化城の垣と城門は日本統治時代、「市区改正」のため、取り壊されました。1914年、定軍山寨の垣も殆ど取り壊され、北白川宮能久親王の記念碑になりました。台湾は中華民国政府の手に戻った後、記念碑が壊され、1965年に八卦山大仏が建てられました。それで、古い垣が全部取り壊され、廟の建物になりました。 今、定軍山寨の旧跡は全然見られなく、花壇郷にある遊園地台湾民俗村だけでは慶豊門を真似して作った城門が昔の彰化城の様子が覗かれます。
top

鹿港古街
瑤林街と埔頭街は昔の鹿港の重要な商業地区で、今は国の文化財とされています。付近の建物は殆ど軒並みの街家式建物です。当時これらの建物の後ろは河の埠頭を臨み、貨物の運搬はとても便利で、倉庫として使われていました。また街家の中段には客間、中庭と寝室があり、道路と接する前段の部分は売店として利用されました。これは河埠頭集落の典型的な建物です。

瑤林街と埔頭街の物語

昔の鹿港は貿易で繁栄になったのです。河を臨む瑤林街と埔頭街は地理的な有利さで、船屋と商売人の商売拠点になりました。しかしその後河積が浅くなり、鹿港の繁栄もバブルになったように消えてしまいました。1986年、政府の手で瑤林街と埔頭街が修復され、昔の光景をもう一度覗かれてくれます。

専門家が教えてくれる物語

鹿港の街は勢力ある家族の所在、商業の形及び邸宅の特色により名付けられたのです。例えば瑤林街の旧名は「楊籃」で、大型船会社が集まる場所です。大有街の旧名は「暗仔街」で、中型船会社の集まる場です。埔頭街は渓埔の起点であり、埔頭とも呼ばれます。ここは小型の船屋が中心で、貿易を従事する人たちが集まる通りです。

古街の昔の風景を再現
レンガの通りを歩くと、古い邸宅の外見、厄除けの古物、そして門の両側に掛けられた対聯がまるで昔の人たちの生活方式を語ってくれるようです。最近、観光業が盛んになり、民俗文芸品の売店が増え、古街に新しい風貌を見せています。

古街を訪れましょう!
瑤林街は鹿港鎮の民権路から右へ曲がると見えます。埔頭街は鹿港鎮の新祖宮のところから左へ曲がると見えます。
top

 

版権の声明 | プライバシーの権利 | 方針を保証しなさい
電話:886-4-7266335#2054 FAX:886-4-7253834
本サイトを見るには、IE5.0またはNetscape 6.0以上のバージョン及び解析度800*600 が必要です。
本サイトの著作権は、彰化県政府が有します。無断転載・複製はその形式に関わらず
英文 中文 CHINESE JAPANESE