台湾新文学の父は誰でしょう?彰化ではじめて日本に留学し修士号を取ったのは誰でしょう?台湾民族音楽の先駆者は誰でしょう?この三人の彰化に共通する背景とは何でしょう?彰化に来れば、一連の疑問は解けます。芸術家の誕生した土地に来て、彼らの成長物語を共有しましょう。
頼和より二歳若く彰化ではじめて日本に留学し修士を取った陳虚谷は、文壇でも有名で、漢詩と新文学に長け、常に詩で時世を風刺し、頼和とは詩作友達でした。
詩人は感情の寵児
詩は人間の感情が最高潮に達した時の声です。我達はこの終始のない宇宙、推移不安定な社会で生活する中、喜怒哀樂が我達の心を刺激する時,我達の霊は絶対に叫びを上げ、私達の心は絶対に躍り、何らかの形でこれを表現する必要が有ります。嬉しければ笑うだろうし、悲しければ、泣き叫びます。芸術の精髄を味わって感嘆賛美し、自然の神秘を観察して恐れを抱きます。これらはすべて表現の形式です。
詩人には何が必要なのでしょう?第一に、鋭敏な直視力、第二に彷彿する情熱、第三に豊富な想像力、第四に、純真な性格です。このような要素を持っていれば、人間性の真相が見え、自然の幽遠さを探求でき、言葉を発することができるのです。これは、一般の人では感じられないことです。だからこど、詩人は感情の寵児であり、理智の科学者でも、肩をすくめ追従笑いをする者でもないのです。《以上は駁北報の無腔笛より引用》〈陳虚谷〉
淡泊の俗名-默園に隠居
台湾光復以後,彼は台湾省の通志館の委員となり、晩年は故郷でむつまじく隠居し、陶淵明をまねて淡泊を俗名として、バロック式の建築物の邸宅を默園と名付け、家屋の正面の壁に「悠然見南山」と書き、その母屋の名称は“孫賢子孝”の類ではなくなりましたが、村に独自に暮らしました。現在、默園は開放されていませんが、外部からその邸宅の規模を見ることが出来ます。
いにしえを思う奥ゆかしい感情を探してみよう
興味のある人はインターネットで陳虚谷 默園と入れて検索すれば、その作品や生涯などの関連情報が見られます。

頼和は元来台湾新文学の父の賞賛を得ていました。医学を学んだ彼は、旧文学の基礎がしっかりしていて、漢詩に意を寄せ、忠実に日本植民地時代中期の台湾人の苦悩と期待を表現しました。頼和は貧困に苦しむ民に同情し、日時医者として得た収入を貧困救済に役立てていました。このため、彰化の市民から「彰化の媽祖」と尊敬して呼ばれるようになりました。彼は十歳で公立学校に入学し、十四歳で「小逸堂」に入り、黄倬其氏から漢文を学び、確実に漢学の基礎を壊しました。詩作友達の陳虚谷は、彼について賞賛し、「平生慣作性靈詩,珠玉連篇不費思」を記しています。
文才と内容がある作品新文学作品
とは、例えば小説の「鬥鬧熱」、「一桿称仔」等や、新詩の「覚醒下的犠牲」、「南国哀歌」や、千首余りの漢詩です。世の乱れを悲しみ、民の困窮を哀れむ心が文学上にも表現されており、頼和の作品は、文才と内容があり、実際に芽生え始めた台湾新文学の大きな鼓舞となりました。民報文芸欄で編集長を担当していた際、新人作家に対して絶えず励ましと意見を提供したといいます。
勇士は、仁義のために戦った
頼和の作品は圧迫された人民を描いており、日本殖民政権の不義を表現しています。その詩句である「勇士當為義鬥爭」はまさに頼和の一生の抗日精神の記録です。終始日本の統治に反抗し、台湾光復以後は祀忠烈祠に入り、1957年には台共の一味であるとぬれぎぬを着せられて実権を奪われ、1984年に名誉を回復し、再び入祀しました。
頼和紀念館
彼の子孫は商売に成功し、彰化市中正路に頼和紀念館を設立し、ここに史料を完全に收藏しました。

許常恵は、原住民の伝統民謡をくまなく集めて台湾民俗音楽を切り開き、充実した一生を終えてはじめて、多くの人にこの音楽の大師は彰化和美の人で、和美キリスト教会付属の託児所や美公學校で学んでいたことが知られるようになりました。
中国の詩に曲をつける
医者で芸文学の家庭に生まれ、深くフランスの芸文学の風潮の影響を受け、更にもともと中国の詩が好きだったことから、よく詩に曲をつけており、郭沫若、徐志摩、白荻、楊喚等の詩作が許常恵の曲の對象となっていました。一九五九年、彼は日本の女性詩人高良留美子の詩作である《昨自海上來》で女性のソプラノソロの曲を作り、イタリア現代音楽協会のコンテストで入賞しました。
台湾の創作分野により多くの可能性を生み出した
四年余りのパリでの学習を終え、帰国後積極的に音楽教育、創作、民謡収集に従事し、もっぱら創作活動にふけりました。帰国後間もない頃何年かは、何度も作品発表会を開きましたが、作品はヨーロッパの音楽の実演手法の影響を深く受けていたため、その多くは一定の曲調で、伝統音楽の旋律性に欠けており、当時比較的保守的な音楽環境の中では賛否両論でしたが、台湾の創作分野により多くの可能性を生み出しまし、「中華民俗芸術基金会」を設立し、民間史料の収集を担当し、民間芸人等の基礎研究を記録し、「アジア作曲連盟」をつくって国際交流も促進しました…。
紀念館の願いは未だ実現せず
許常恵の死後、彼の家族の希望で許常恵が幼年遊んだ和美鎮徳美公園に紀念館を設立したいとのことですが,都市計画の障害に遭い、未だにその願いは実現されていません。 |